*乱読事始め*

気の向くままに視覚に入った本・インスピレーションを感じた本の感想を書いてみます。

悪名の棺 笹川良一伝-工藤美代子:すごい人だった。「ギャンブル王」はマスコミが作り上げた虚像。 真実は自分で確かめるのか一番と実感した一冊。 

実はこんなにすごい人だった。

どうして、笹川氏の功績を語られる事がなかったのであろうか?

著者の工藤美代子氏は 戦後、多大なる貢献をした日本男子・実業家がいたことを知ってほしかったのだろう。と思う。

「男の嫉妬」とは かくも恐ろしきものか? と思った一冊。

 

<笹川 良一>

 

ダイジェストではあるが、笹川氏の背景を書き留めておきたい。

 

生い立ち

笹川氏は延享4年(1747年)から二百数年以上も続いている家柄で、苗字、帯刀を許された庄屋の家系。 いわゆる村の有力者・比較的裕福な造り酒屋の長男として明治32年(1899年)5月4日に生まれた。生家は大阪府箕面市小野原西2丁目となっている。

箕面市は現在でも富裕層の住む高級住宅街 もともと お金持ちの坊ちゃま だったんですね。

 

 

笹川良一氏の意外な幼馴染

 

竹馬の友に日本を代表する作家 川端康成がいる。

ガキ大将だった笹川氏と川端氏は家同士も親しくしていたのでよく往来していた。

その後は川端氏は東京帝国大学文学部へ進む傍ら、笹川氏は進学を許されず、近くの寺に住み込みの修行に出され、やがてさまざまな事業を立ち上げる。

2人が57歳の時に雑誌の企画で再会。川端氏が第四代日本ペンクラブ会長として国際ペンクラブ大会の招聘や運営に資金調達に腐心している時に進んで資金援助をしていたのは

笹川氏である。

意外な交友録であり、正直 かなり驚きました。同じ土地で生まれた二人の男の子が

道は違えたものの、世に足跡を残す事をやり遂げたということは単なる偶然?なのか?

 

少年時代

最終学歴は農業補修学校甲部 でやや意外。笹川家は斑有数の資産家であるにも関わらず、父・鶴吉が豊川尋常高等小学校の澤田永太郎校長に相談にきて、進学に首を捻ったという説が有力。という説もあるし、『破天荒 人間笹川良一山岡荘八 著 では

父 鶴吉はしきりに進学を勧めたが、笹川少年は、

「勉強はもっと大人になってから勝手にやるわい。学校で勉強するより、世の中に出て、いろんな生きた勉強をするほうが、ずっとおもしろいわ」と言っていたそうである。

という説もあり、むしろ 笹川氏らしい考え方だと納得できる。

 

先見の明もあった。

 

大正5年に寺で2年の修行を終えると、自宅へ戻り いよいよ稼業の酒屋を継ぐのかと思いきや、新聞で読んだ 「アメリカから飛行機を購入した 西出 清という飛行士が金銭的理由から税関から引き取れずに困っている」という記事を発見。

幼いころから飛行機にあこがれていた笹川少年はいてもたってもいられず、

当時は少年だったにも関わらず、西出飛行士に手紙を書き資金援助を申し入れ、父親を説得し、資金を出させた。 閃いたら猪突猛進 まっしぐらとばかりに無鉄砲なところは、両親を多いに困惑させたが、その後、2年間 飛行機の修理や操縦術を学んで豊川村へ戻る。

そして、大正8年に徴兵検査を受け合格し岐阜県各務原航空第二大隊陸軍工兵二等兵として配属される。

その後、大正10年11月付で工兵上等兵とあり、前途洋々かと思えば、プロペラの誤作動により右肩の付け根を骨折という事故に遭遇。やむなく志半ばで除隊となるが、のちに

ここでの経験がその後 飛行機による国防・国粋義勇飛行隊の企画につながる。

 

やむなく 実家に戻ることになる。 そして 父の死。

急なことではあったが、笹川氏は 総領として遺産の相続をすませ、この財産を元手に先物取引に大枚を張り、巨万の富を得た。

大正14年には豊川市の村会議員に立候補し当選するものの、社会が狭かったのか。。。。

1期4年で引退。

むろんその間も堂島の相場師となり、米相場や商品先物取引を開始。さらに財産を増やす。

次なる ステージへ移動していく。

 

第一次世界大戦後の好転から、関東大震災により一転して不況に陥る。

そうなると巨万の富を得た笹川氏の周辺は賑やかになっていく。

時代が笹川氏に救済を求めたし、思わぬ事業を始めることになる。

①大阪にあった愛国貯金銀行を頭取の所有していた韓国にある高級住宅地約8万坪を担保に資金援助し、銀行救済を受け入れる。 それも無利子で!

 

②国防社という団体が発行していた「国防」が財政困難となり、その経済援助を引き受け社長に就任。その後、この国防社を母体としてより大きな組織「国粋大衆党」を立ち上げることになる。

 

③若手人気俳優 市川右太衛門のプロダクションが倒産寸前になったことから、乞われて

2つ目の社長に就任。

 

笹川氏の活動が広がるきっかけとなったのは 昭和4年(1929年)の世界規模の「暗黒の木曜日」として知られる 大恐慌が始まった時である。

日本国内では各地で労働運動が激化し、共産党は地下活動の勢力を拡大。

ロシア革命の影響が日本にまで及び始めると、笹川氏は己の進むべき道と国家の在り方について決意を固めることになる。

笹川氏は金儲けは単なる手段であるからして、その資金を元手に政治活動に邁進していく。

その土台になったのが、先程②で手を差し伸べた国防社が母体となり、「国粋大衆党」と命名した政治団体(愛国・国粋主義を標榜する結社)を齢 32歳という若さで設立。

笹川氏は家庭も顧みず新進右翼として国粋大衆党の活動に持てる力を注いでいくことになる。

「右翼の親玉」と終生言われ続けたきっかけの始まりですね。

 

 

笹川氏が他の多くの右翼と一線を介していたのは圧倒的な経済力。

国粋大衆党は個人経営であり、笹川氏はオーナー総裁ゆえに 政界、財界、官僚の誰ひとりからも援助を受ける必要が無かった。 つまり忌憚するものがない。 そして、公的役職の座=名誉職に執着が無かった。

興味のあること - 少年時代から抱いていた航空機への憧れと関心が民間パイロット育成を目的として国粋義勇飛行隊結成へとつながっていく。

笹川氏が隊長に収まり、自前の飛行機を20機もった。そうなると、自前の飛行場がなければ隊員育成が出来ない。 当時大阪にはまともな飛行場がなかった。 さて、どうするか?

 

読み進めるにあたり、驚いたのは フットワークの良さ。

 

笹川氏は大阪近郊に専用飛行場の場所探しを始め、財界や世論の反発を考慮し、相手を巻き込むことで目的を達成すべく、関西財界屈指の実業家である勝本忠兵衛氏を訪ねて協力を要請。このあたりの進め方は実に段取りが良く、協力体制の作り方も絶妙である。

大阪府中河内郡盾津村に約十万坪の土地を見つけ、用地回収と寄付金を集め、笹川氏と勝本氏が発起人となり、「財団法人大阪防空飛行場」を立ち上げる。

ところが、飛行場は開場式が行われる前に すべて 投資した建設費も度返しして、練習機20機+飛行場を国家に献納してしまう。

陸軍にとっては渡りに船。寺内中将は叙勲の話を申し出るも笹川氏は固辞。

とはいえ 軍はやはり気が咎めるのか、その功績に対して7年後の昭和16年3月3日 東条英機陸相から感謝状授与し、笹川氏はそれを受け取ることになる。

 

又、大阪の民間人が飛行場を作って訓練施設まで立ち上げたという話を耳にして、

笹川氏は当時海軍省の次官だった山本五十六氏と面会した事がきっかけで縁が生まれる。その後 二人は意気投合し15歳という年齢差にも関わらず、親交を深めていく。

山本氏の力添えもあったのだろうか? 当時 大阪検察局より睨まれていたにも関わらず、昭和14年の暮れにドイツ・イタリア訪問を実行。イタリア首相ムッソリーニとの会見を果たすという大技を実行。

神出鬼没 いろいろな立ち位置で縦横無人な活躍ぶりである。

 

思い立ったら即行動。 ビジネスにその持てる力を注いだら、もっと成功したでしょうね。

山本五十六連合艦隊司令長官、イタリアのムッソリーニ首相と 歴史上を駆け抜けていった軍人、政治家と 笹川氏は袖を擦りある機会に恵まれた、これも人物の持つ引力・磁力なのでしょうか。 類は友を呼ぶのか?

 

英雄色を好む

笹川氏は離婚歴があり、また女性関係もいろいろとややこしい局面に立たされた事も多かったようです。

 

本書より抜粋。

 

山本五十六氏との会話で

山本氏「君は愛をどういう風に分配するのか?」

笹川氏「私はたった一人に愛をあたえますねん。」

山本氏「そりゃ計算が合わないな。もし3人だとすれば、三分の一ずつじゃないのか?」

笹川氏「いや、西へいったら浜松を境に東京の女は忘れる。西の女に愛のすべてをくれてやる。東京へ帰ってきたら、大阪のことはすべて忘れて東京の女に愛情を注ぐんや。」

という持論を展開。 上手に西と東の愛を使い分けていたようである。

 

本書の第三章 修羅を奔る-「下半身の人格は別」で プライベート/私人としての笹川氏の生活がうかがえる。

一言でいうと、莫大な資産を持ちながら 個人の生活は極めて質素。

家族からすれば、質素・倹約というよりもケチ・吝嗇。

世間のイメージとずいぶんかけ離れた生活ぶりだったようです。

笹川氏 本人は質素・倹約をつらぬいた生活でも良いでしょう。 しかしながら 笹川氏の質素な生活に付き合わされる家族の御苦労はどれほどのものだったろうか?

「相続財産を残さないのが、相続」ということで、笹川氏は宣言通りに、資産のすべて社会貢献と福祉に使いきっています。-

みんなが幸せになれることが 事業の目的。

その大義に付き合った ご家族・女性たちの犠牲と忍耐によって 笹川氏は偉業を成し遂げられたのでしょう。

「お国の為に」汗を流す夫・父親に信じてついていくのは「犠牲・忍耐」のみならず「強靭なる精神」がなければできなかった事だと思います。

 

 

さて、本題に戻って、

終戦後の戦争犯罪人逮捕におびえる戦争指導者を尻目に 笹川氏は逮捕されることを願っていた。逮捕されて、刑務所内での待遇改善交渉や裁判技術を指南しなければならないと

考えていたようである。

本人も意図的に大阪の選挙区へ帰って占領軍の批判独演会を実に20数回開いており、努力の甲斐があってか? 期待通りに笹川氏に巣鴨拘置所へ出頭命令が届き、A級戦犯として

逮捕される。

この時に笹川氏は獄中にて 開戦当時の陸軍省兵務局長 田中隆吉 少将との対決、そして児玉誉士夫の背信から満三年を巣鴨の獄中で過ごす。

ここで田中隆吉と児玉誉士夫によってねつ造された陸軍機密費の裏金疑惑が掛けられ新たなる試練に立ち向かわなければならなかった。

そして、獄中で目にした昨日までの国家指導者たちが命乞いの為に他人を裏切る姿だった。

本書には はばかることなく、名指しで 内大臣 木戸幸一の名前を挙げている。

GHQ (検察側)に協力的な発言を繰り返し、天皇陛下に迷惑を掛けない為という名分を笠に着て内実は責任を陸軍に押し付け、自分は有利になりたいという見え見えの証言に憤りを感じていた軍人は多かったようである。

 

釈放後の笹川氏の活動の功績の一つとして、

戦犯刑死者やその家族ならびにまだ残る受刑者の救援活動への熱心な取り組みを上げたい。

部下の容疑を背負って責任をすべて被った岡田 資 中将を始め 名も知れていない兵士の家族に至るまで、笹川の援助により救われた家族がどれだけいたことだろうか?

生前の笹川氏はこうした救援活動の仔細について自ら語ることはなく、具体的な活動は笹川氏没後に書簡などが整理され世に出た事実である。

 

その範疇は 服役者の留守家族が巣鴨を訪ねる際の旅費工面から、貧窮者には生活費の面倒まで幅広い援助を展開していた。

当然、資金繰りも大変だったようで、資金調達の為に出所するなり残されていた不動産の売買や株、商品取引などで資金を獲得し工面した。

その活動は極東国際軍事法廷閉廷後、刑死、獄死した人たちに対する慰霊、法要、そしてその遺族たちの生活支援にまで及ぶ。

本体であれば国家がやるべきことだと思うが、使命感から己がやらねば英霊に申し訳が立たないと遺族たちに手を差し伸べ続けた。

 

 

遺族救護の役割を担った組織「白蓮社」が解散するに伴い、白菊遺族会という戦犯刑死者の遺族組織を設立。白蓮社に安置されていた 平和身代地蔵尊護国寺に預けられていた位牌などをすべて引き受け、笹川家の新居仏間に安置。

なおかつ、法要は笹川家で昭和46年まで継続、その回数は241回にも及んだ。

昭和47年からは会場を日本船舶振興会のビル内に移動し、笹川氏94歳の年まで続いた。

全経費は笹川氏のポケットマネーで賄い、無論 訪ねてくる遺族や留守家族の交通費、小遣い、就職の世話、病気の費用すべてが笹川個人の負担であった。というから驚きです。

 

さすがの笹川氏もポケットマネー支援・援助も限りがある。 その運動を持続させるにあたり、根本的な資金源の確保に思いついたのが、モーターボート。思い立ったら止まらない笹川氏はかねてからの昵懇だった政治家に接触し、議員立法として衆議院に提出。

その実現も平坦な道のりではなかった。

法案は衆議院で可決するも、参議院で否決。 国会史上初めて行使されるという憲法第59条第2項に基づいて衆議院に戻され、逆転可決。

法案が設定、公布されるのは 昭和26年6月18日のこととなる。

努力が実ってやっと、昭和26年 全国モーターボート競走会連合会を設立となった。

 

ここで笹川氏はこんなスキームを完成させる。

競艇事業での儲けは船舶振興会を通して透明性を確保した上で、各種の海事事業などに交付する。

株や土地での収益は自分のポケットマネー。 税務申告した残りを福祉の為に使う。

 

本書から 笹川氏の思いを抜粋してみよう。

 

「人生の目的を達成するためには、金は無いよりあった方がいい。ましてや儲けた金の大部分を福祉事業に寄与するのが目的だから、なければ不可能だ。」

要は脱税を犯していなければいいのであって、公営ギャンブルで儲けようと金銭に貴賤はない。

 

ごもっとも。職業に貴賤が無いように、金銭にも貴賤はない。

脱税行為・税金を払えば違法でもないし、倫理違反でもない。

最終目的が蓄財ではなく、目的達成の為の蓄財ゆえに金銭で躓くことはなかった。

 

「情に生きるには利に通じなければならない。」

 

 

本書の記載から抜粋してみよう。

笹川氏は「断じて行えば鬼神もこれを避く」の意気込みだった、と語っているが、

その決意に私心がなかったことは今でも多くの人が認めるところである。

 

こうした笹川氏の尽力は、本人が進んで話さなかったいきさつもあり、ほとんど知られていないのは、残念です。

言葉にするのは簡単だ。 でも やり遂げるのは本当に難しい。

お金が絡むことに関しては「恩着せがましい」態度、喧伝をするのは凡人の常。

笹川氏は英霊の弔いに金銭のことを言葉にするのは供養にならないと、憚れたのかもしれません。

 

 

残念なのは、笹川氏の場合は 世論やマスコミが笹川氏をほめたりすると、自分に矛先が向けられ、メディアから「黒い烙印」を捺されかねないと その大きな役割に対して

発言をする人がいなかった事。

 

誰もが出来ることではない事を次々と実行していく故の嫉妬なのか?悪意なのか?

たとえば、白菊遺族会についても調査をすれば、その貢献が如何ばかりなるものか?

簡単に理解できると思われるのですが、まったく公にされることはなかった。

歪められた人物像を広めたマスコミの罪は大きい。

 

笹川良一氏の人物像・イメージが マスコミや心無い人々によっていかようにゆがめられていたことを本書から 抜粋してみよう。

 

日教組槙枝元文委員長。

笹川良一氏の叙勲に関して、後年、槙枝元文氏はインターネット新聞「日刊リベタ」において次のような記述を残している。

「私はそのこと、文化勲章の受章者に「ギャンブル王」と言われた日本船舶振興会会長の笹川良一氏が候補に挙がっていることを批判し、「たとえば映画俳優の長谷川良一氏のような日本映画・演劇を通して大衆文化の発展に貢献した人の方が文化勲章にふさわしいのではないか?」と提案した。砂田文相は即座に「いや、私もそれを考えていたところだ。あなたはそんなことを考えていたのですか?」と驚いた様子。とたんに酒がうまくなった。と大笑いしたものだ。

 

こんなくだらない話を読まされる方はたまらない。

単なる 内輪話・個人攻撃 ってやつですよね。

日刊リベタってこんな稚拙な新聞なんだ。 知らなかった。

 

槙枝氏の笹川氏に対する民法連等各単組への働きかけはもちろんのこと、お膝元の日教組大会でも

「ギャンブルの金で自分の宣伝をしている」などとしてネガティブキャンペーンの先頭に立っていた。

と当時はかなり、笹川氏のCMを目の敵にして攻撃していたようであるが、

 

およそ10年後、その槙枝氏が「功成り名を遂げて」現役を退き、「日中技能交流センター」という財団法人を旧労働省を動かして創設(いわゆる、お役人の天下り先ですね。)し、

理事長に就任した。 同センターの設立認可は昭和61年(1986年)9月となっている。

日中を股にかけたその活動が始まった矢先、槙枝氏は資金難に遭遇。

中国側は当時とても日本と対等に交流するような資金のあてはない。すべてが日本側の負担という事態が訪れるのは自明の時代だった。

 

とあり、槙枝氏が理事長を務める「日中技能交流センター」は早々に財政難に陥ってしまったようである。

結局、幹部職員の頭に浮かんだのは、槙枝氏が目の敵にしていた「笹川平和財団」に援助を求めるという最終案? だった。

 

著者の 工藤美代子氏も槙枝氏のありさまにあきれ果てたのであろう。

 

「まだ、創設2年足らずのセンターと運営が、いかに杜撰なものであったかもうかがえようというものだ。」と記載があり、

結局、昭和63年(1988年)秋に 槙枝氏は あれほど悪口を言い募った笹川氏に頭を下げて金を貰うことになる。

 

槙枝氏はばつが悪かったのか、ご本人の回想録で日本船舶振興会に 派遣事業に協力を求め、助成を引き受けてもらったことを明記しているが、

その後にわたっても公然と 笹川氏を「ギャンブル王」呼ばわりしていた。

 

負け犬の悪あがきのような醜態である。こんな人の回想録なんぞは読みたくもない。

レベルが低い~。低すぎる。

槙枝氏が吠えるほど、笹川氏の「度量」と「懐」の広さと深さが逆に際立ってしまうのが、

本人の思惑と逆転しているだけに・・・。

槙枝氏の人としての品格が否応なしに問われることになる。

 

地位のある人は 個人攻撃をしない方が身のため! という良いお手本ですね。

「好き」「嫌い」で世の中が成り立つのであれば、どんなに楽か。

 

槙枝氏が主張する 中国に使う分担金は「いい金」

それ以外は「ギャンブル」で得た「汚い金」になるという、わけのわからん理屈。

盗んだわけでもなし、遊技場で設けた利益と株式投資で挙げた利益とどう違うのか?

不法行為マネーロンダリングや脱税)して得たお金ではないのに。

 

職業に貴賤が無いとの一緒で、お金に貴賤があるわけではない。

 

清濁あわせもって飲むことが出来て人の上に立つことができるのでは?

きれいごとばかり並べて、汚れ仕事には目をつぶり、世話になって置きながら御礼も言わない。

あきれるばかりであるが、 笹川氏はこう言った個人攻撃をしかけるマスコミや人々に

反論や対抗することはなかったそうです。

 

結局、槙枝氏は 笹川氏の経済力に屈したわけで、さまざまな批判はしょせん無い物ねだりの「男の嫉妬」なのである。

その「男の嫉妬」の執念が マスコミで作り上げられた 「ギャンブル王」のイメージを作り上げたように思う。

 

笹川氏自身が節目で「男との嫉妬」により苦境にあったことは多々あったのであろうが、

それでも、反論すること無く「許す」事が出来たのは、 責める相手を下に見ているから「許せた」のではないか? そんな風に思えてならない。

 

 

笹川良一氏の実績や足跡については 本書の工藤美代子氏や山岡荘八氏が本人から取材して書籍を残している。

戦争で犠牲になった英霊の弔いに尽力した民間人・実業家いた。 そんな事実を戦後70年の節目に知ってほしい。

 

 

悪名の棺―笹川良一伝

悪名の棺―笹川良一伝