*乱読事始め*

気の向くままに視覚に入った本・インスピレーションを感じた本の感想を書いてみます。

731-青木富貴子:戦後70年の節目。日本人であるならば、知っておくべき戦時中の記録として読んでみた。

本書をチョイスした理由はいたってシンプル。

①先の大東亜戦争に関わる書籍 で

②時系列が整理されて、情報のリソースがきちんと記録されている。

③くわえて、自宅の書棚を飾っていた?積読本のうちの一冊だった。

 

本年は戦後70年の節目。

韓国・中国が執拗に主張する先の戦争に関する歴史認識の温度差の隔たりを埋めるべく、戦争時に起こった事象や記録に目を通す事が必要と感じている。

とはいえ、個人で調査するのは大変困難なことなので、信頼のおける著者の著作をざっとスキャンして 「丁寧に」調査されている本書をチョイスした次第。

 

 

本書は10年前に上梓された本であるが、著者の青木氏が調査をスタートするタイミングを逃していたら、本書に登場する731部隊関係者はほぼ鬼籍に入って、謎は深まるばかりであったろうと思う。

始まりは、2003年5月。

関東軍731部隊の隊長 石井四郎直筆の終戦から終戦直後にかけて大学ノート二冊に残したメモが偶然発見された事。

保管していたのは、石井家のお手伝いさんだった 渡邊あきさん(当時、齢90歳)。

ご子息の周一氏から著者 青木富貴子氏は二冊のノートを受け取ったところから、本書の旅が始まった。

アメリカと日本を往復しながら、関係者の記憶を紐解きながら、地道に一冊の本にまとめた青木氏の尽力と根気には頭が下がる思いで読み進めました。

 

陸軍軍医学校の歴史に「マッド・サイエンティスト」として名前を残した、

石井四郎は3年間の浪人生活を経て京都帝国大学医学部へ入学。卒業後は陸軍軍医学校へ入学し見習士官として4カ月の軍事訓練を経て、1921年(対象0年)4月に二等軍医(中尉相当)になった。その当時ですでに石井四郎は28歳。

陸軍軍医学校を卒業後、近衛歩兵第三連帯に配属になったあと、東京第一衛戍病院に勤務、続いて陸軍から京都帝国大学医学部大学院へ送られた。

陸軍が石井を大学院へ送った目的は

「殺菌学、血清学、予防医学、それに病理の為の研究」とある。

石井四郎は内地留学先の京都大学1924年(大正13年)夏に突然発生した嗜眠性脳炎という奇妙なねむり病の研究プロジェクトを細菌班とウィルス班に分け、動物実験に成功。

原因がウィルスだと判定し学会にて発表をした。 そしてこの病の原因はウィルスであると承認される。

やがて研究成果が認められて 京都帝国大学医学部から医学博士の学位を授与。

ここでのプロジェクトがのちに細菌戦施設を作り上げる為に陸軍省参謀本部を動かしていく才能が開花していく。

 

こうなると、出世街道まっしぐらである。

京大総長 荒木寅三郎の令嬢 清子と結婚し、京大総長の後ろ盾を得て、2年にも渡る欧州旅行に旅立つ。

 

欧州旅行前より、石井は細菌戦について参謀本部や作戦課長クラスへ細菌戦の有効性と準備が必要かを訴えて回る。

1925年(大正14年)6月17日 化学兵器と細菌兵器の使用を禁止した「ジュネーブ議定書」の締結という後押しもあり、

石井は条約で禁止するほど細菌兵器が脅威であり、有効であると確信。 これを開発し己の夢・大きな事を成し遂げたいという欲望に傾斜していく。

 

 

1930年(昭和5年)欧州~米国旅行より帰国した石井四郎は 三等軍医正(軍医少佐に相当)に昇進し、陸軍軍医学校教官へ任命された。

そうなると石井四郎は 欧米で集めた資料と情報に脚色をつけて、突飛な行動(奇行)と弁が立つゆえの宣伝上手で、陸軍省参謀本部の幹部に細菌戦研究の必要性を説いて回る。

 

後押しとなったのは 満州事変の勃発。

 

戦地で伝染病に斃れる兵士の数は戦死者よりもずっと多い。その数は戦死者の10倍

 

本書から抜粋してみよう。

 

当時はコレラの予防法も治療も無かったので、下痢が続いて水を飲んでも吐くようになると、軍医の診察を受けて入院する。

入院と決まれば、死の宣告と同様、戦友に礼をいい、遺言を述べて担架で運ばれる。

病室には消石灰を厚く敷いた蓆があって、そこに横たわり死を待つだけとなる。

 

とある。伝染病に罹患するということ。 すなわち ‘’死’’ を意味した。時代だった。

 

(私は無知だと痛感。驚愕の事実。戦う前に病魔に襲われて命を落とすことになるとは、なんとも皮肉なものです。)

 

石井四郎も用意周到に注意深く静かに着々と行動する。

平房に本拠を構える前に 「東郷 一」という偽名を使い、「東郷部隊」とう防諜名で秘密部隊を編制。 全員が偽名を使うほど秘密裏に行動した部隊であった。

 

人体実験が可能な一大医学研究所の創設を目的とした石井四郎は、陸軍省を口説き落とすためにまずはそのアイディア・企画力を防疫給水の開発で発揮。

ここでも、はったりと押しの強さで濾水機の実用性をうたい「石井式濾水機」プロジェクトを成功させる。

軍内部での信頼と実績を作り、かねてからの細菌兵器開発の為に参謀部を説得に回り

軍の後ろ盾ができれば、研究費は潤沢・自由な実験研究が可能になり、やがてその労力を満州「平房」の地へ大量殺人兵器を開発を最終目的とする人体実験場を作り上げることにそそぐこととなる。

 

当時の様子を知る為に 青木氏は縦横無尽に関係者を訪ねて歩く。

 

まずは篠塚良雄

中国人被害者家族が日本政府を相手に東京地裁で起こした細菌戦裁判訴訟で、証言台に立ち供述した人物である。

 

終戦時には中国におり、中国人民解放軍に逮捕され、撫順戦犯管理所に収容されたものの、下級部員ということで、不起訴となり 1956年(昭和31年)に帰国した人物。

 

戦後、無事に早々と帰国した医学者たちは 大学の医学部や製薬会社、国立予防衛生研究所(現:国立感染症研究所)などの要職についた。

その代表として、石井四郎と同じく陸軍軍医学校で学んだ 内藤良一(「日本ブラッドバンク」 後の「ミドリ十字」創設者)がいる。

(「ミドリ十字」には内藤良一の誘いで多くの元軍医や隊員が職を得た。)

 

本題に戻ろう。

 

篠塚良雄は1939年4月1日 少年隊として陸軍軍医学校の奥にあった「防疫研究室」へいざなわれ、石井部隊の少年隊員となる。

そののち、一カ月後、篠塚良雄ら 少年隊は下関から釜山へ連絡船でわたり、釜山から汽車で朝鮮半島を北上、ハルピンへ 1939年5月12日に到着する。

問題の場所の様子は かなり生々しい。

大平原のなかに忽然と現れた真新しい建物群。 鉄条網で囲まれた広大な敷地に一大施設が現れる。

コンクリート造りの堅固な建物の入り口には関東軍司令官の立札があり、本部建物を進んでいくと奥には 数棟の建物が続く。 守衛所から入って右側の先に3本の大きな煙突がそそり立ち、その奥には資材部、右には動物舎、中央にはもっと堅固な3階建の白亜の建物がそびえたち、これら建物の全体を囲む堀の上に2メートルほどの高さの土塀が立ち、さらにその上に高圧電流が流れている鉄条網がはりめぐらされていた。

かなり、警備は厳重で 石井四郎の研究室は 特別軍事地域に指定されていたようである。

 

そして、篠塚良雄は到着してほどなく、「マルタ」 つまり、部隊が捕虜と呼んでいた言葉を耳にし、秘密を知ることになる。

 

ここまで読み進んでくると、軍によりかの地へ連れてこられた 少年隊の運命・命はいかに軽んじられていたのか、理解できる。

 

本書から抜粋してみる。

 

8月、9月頃、篠塚良雄の同郷の萩原三雄はチフスではなく肺結核に侵されて入院。その後、故郷に帰され、終戦時には自宅療養をしていたが、1946年(昭和21年)に20代前半という若さでこの世を去った。 彼もまた石井部隊の犠牲者だった。

萩原は供述書にこう記している。ハルピンには南崗というところに陸軍病院があった。当時 南崗の陸軍病院に収容された患者の相当数が石井部隊の勤務者であったと萩原は聞いている。

 

本書の記載では少年隊の死亡の原因は、腸チフス、ペストなどの伝染病。

何故 少年たちが 伝染病に罹患してしまったのか?

細菌の恐ろしさを知らなかったからである。

部隊の様子が赤裸々に書かれている。

軍隊でも少年隊の隊員が伝染病に感染しないように罹患を防ぐ為、チフス、パラチフス、コレラ、ペストなどの予防注射を実施しているものの、事前にリスク説明も無く、どんな注射を投与されているのか? わからないまま、過ごしていたようだ。

 

リスク説明もなく、感染の危険にさらされながら、細菌の扱いを行ったらどうなるのだろう。常に予防接種を受けていたとしても、当然 感染する。

篠崎のコメントは続く。 

「第一回前期後記あわせて60名近くの少年隊隊員がいたのが、生きて帰れたのは半分もいなかった。 感染したり、あるいは南方へ送られて戦死したり。。。 いつも命と引き換えでした。」

 

重い。 あまりにも 身勝手な石井四郎に医者としての良心はないのか! と

説いてみたくなる。だが、細菌兵器の開発という、身勝手な思惑の目的を前にしては

わずかな犠牲と思っていたのであろうか?

 

青木氏はどんどん 篠塚に核心に触れた質問を畳み掛けていく。

 

「仲間の解剖に立ち会ったことがあるか?」

 

読み進めるのがつらくなってくる。だが、これも歴史の1ページなのか。

 

篠塚の回答は

 

「一回だけあります。 これは天皇陛下の為、国の為だ。 解剖されること自身もね。

細菌学の分野では必ず生体解剖じゃないと効果がないんです。

なぜかというと、人間、息を引き取って死亡すると雑菌が入っちゃうんです。だから瀕死の重傷で、まだ雑菌が入らないうちに解剖して、必要なものを取り出すというんです。」

 

何を取り出すというのか?

篠崎は よくわからなかったようであるが、引き続き説明している。

「当時、動物体を通せば毒力は強まる。 という説があった。だから、生体実験、生体解剖をやることの一つの目的は 次に必要な細菌の大量生産の為に、菌株(スタム)を手に入れることではなかったのか?と」 。。。 回答している。

 

青木氏は医学的にみて、動物体を通せば独力が強まるかどうか? 微生物学の名誉教授に意見を仰いでいるが、

「一般的医学常識としては、動物通過により病原体の毒力は強まるといわれています。しかし エビデンス(医学的証拠)というと、なかなか答えにくい問題です。」

 

・・・・・・・。言葉を失った。 戦時下の緊迫した状況が医師を狂気へと誘うのか。

 

そろそろ記録するのが苦しくなってきた。

石井四郎のその後をまとめてみよう。

戦後、巣鴨刑務所に繋がれ裁かれるはずだった石井四郎は土壇場で彼らの研究(細菌兵器という禁断の兵器)のデータを米国へ手渡し、自宅で旅館(米軍と日本人女性相手)を営むことで生き延びた。

GHQの対的諜報部隊の「シロウ イシイ」のファイルの中に1950年2月当時の石井四郎の生活ぶりを伝える記事があった。

良心の呵責なのか、贖罪を求めるのか。

記録によると、禅に深く入れ込み、僧侶のような暮らしをしていたらしい。

その死はあっけないもので、1959年(昭和34年)10月9日 咽頭癌の為、国立東京第一病院で亡くなっている。

 

(追記)

731部隊に関連していた医師を追っていくと、その後 思わぬ事件にその存在を発見することがある。

代表格となるのは、

内藤良一

防疫研究室に在籍、石井機関のネットワーク要職にあり、アメリカ軍の調査で通訳を務め、取り調べを受けた。(GHQの調査を行った マレー・サンダースに「誓って人体実験は行わなかった」と報告している。)

戦後、郷里で内藤医院を開業したのち「日本ブラッドバンク」のちの「ミドリ十字」を立ち上げる。 

創業後はかつての仲間であった医師に内藤良一が声をかけ、

731部隊に携わった関係者がミドリ十字に集うことになった。

内藤良一は1982年に亡くなるが、のちの薬害エイズで舞台となったミドリ十字の創業者がこんなところで繋がっていくのは、何かの因縁なのか、偶然なのか。

背筋が寒くなる。

 

 

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